60歳からの「働き方改革」とは何か|続けるうちに見えてきたこと

図書館でコーヒーを飲みながら本を読むシニア男性 働き方・生き方
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「60歳からの『働き方改革』」と聞いて、どんなイメージを持つだろうか。

会社を辞めて独立する。転職して新しい環境に飛び込む。あるいはFIREして仕事から解放される。──そうした、外に向かう大きな変化を思い浮かべる人が多いかもしれない。

私自身、定年が見え始めた頃には、漠然と「定年後は何か新しいことを始めなくては」と思っていた。けれど、実際に定年を迎えて再雇用で働き続け、定年から数年がたった今、私が感じている「働き方の変化」は、それとは少し違うものだった。

仕事は変わっていない。住んでいる場所も変わっていない。職場の建物も、自転車で15分の通勤路も、変わらない。それでも、続けてきた中で、見えてきたものがある。

第3シリーズの締めくくりとして、その「内側で起きた小さな変化」を、少し書き残しておきたい。

再雇用を続けてきて、最近見えてきたもの

再雇用が始まった頃の話を、まずしておきたい。

定年から再雇用に切り替わって、給与は半分以下になった(関連:再雇用の給与は激減する?60代前半・現役会社員が手取りを公開)。役職もなくなり、若い頃に担当していたような実務に戻った。

正直に言えば、最初の1年は違和感が大きかった。「私はもう、ここで何かを動かす立場ではない」と頭で理解していても、長年やってきた仕事の流れを変えるような場面で、つい一歩前に出てしまうこともあった。後輩や上司との距離感も、しばらくは掴みきれずにいた。

それが、数年が経って、少しずつ変わってきた。

何が変わったのか。一言で言えば、「自分の役割を、自分で決めていいんだ」と思えるようになったことかもしれない。前に出るときは出る。引くときは引く。その判断を、肩書きや役職ではなく、自分の経験と感覚に委ねていい。そう思えるようになってきた。

ただし、今も違和感が完全に消えたわけではない。「このまま続けていていいのか」「自分でなくてもいいんじゃないか」という気持ちが、ふと顔を出す日もある。健康のことも気にしながら、無理をしすぎないバランスを探っている毎日だ(関連:再雇用後の健康管理|60代が仕事を続けるための体づくり)。

それでも、私は仕事を辞めていない。辞める理由を探すよりも、続ける理由が、少しずつ自分の中で育ってきている──そんな感覚に近い。

本業の外で、続けてきたもの

再雇用の本業と並行して、私が続けてきたことがいくつかある。

一つは、このブログだ。

最初は、収入の補填になればという、ごく実務的な動機で始めた(関連:60代の副業はどう選ぶ?|自分の経験を活かす3つの選択肢)。けれど、書き溜めてきた記事を読み返してみると、自分の体験を整理して、必要な人に届けるという行為そのものに、思っていた以上の手応えを感じるようになった。収益はまだほとんど立っていない。それでも、書くこと自体に、別の意味が出てきている。

もう一つは、英検の勉強だ(関連:「本当に好きなこと」がわからないまま定年を迎えた私が、今思うこと)。

きっかけは、何かの資格でもあれば、というぼんやりした理由だった。準1級を取り、今は1級に向けて続けている。当初は「キャリアのため」「履歴書のため」と考えていたが、続けているうちに、英語そのものへの興味が静かに育ってきた。20年来続けている読書も、英語に触れる時間が増えてきている。

そして、地元での暮らし(関連:親のために地元に残った私が、60代になって思うこと)。

これは「続けてきた」というより、「離れずにきた」と書くべきかもしれない。親の介護のために茨城県南に残った選択は、若い頃には消極的なものだった。けれど、母を介護施設に預け、家族との時間が増えた今、この土地が「私にとって最良の場所」だと感じることが増えた。

本業、ブログ、英検、地元。これらは一見、ばらばらに見える。けれど振り返ってみると、ある共通点があった。

4つに共通していたのは、「実益から始めた」ということ

並べてみて気づいたのは、どれも最初は「実益」から入った、ということだ。

本業は、生活のため。
ブログは、収入の補填のため。
英検は、何かのため。
地元は、親のため。

「好きで始めた」と言えるものは、ひとつもなかった。

これは少し恥ずかしい気もする。趣味の話を聞かれて「これが好きで」と即答できる人を見ると、自分との違いを感じてきた。振り返ってみると、私は「好きで何かを選んだ」という経験が、あまり多くない。

けれど、定年から数年が経った今、その「実益から入った」という入口の地味さこそが、続けるためには大事だったのかもしれない、と思うようになった。

派手なスタートでなかったから、燃え尽きずに続けてこられた。最初に大きな期待を抱えなかったから、思い通りにならないことに腹を立てずに済んだ。実益という、地に足のついた動機が、私を支えてきた。

そう考えると、「最初から好きなことが見つかっている人」と「そうでない人」の差は、ゴール地点では案外小さいのかもしれない。

「好き」は、後からついてきた

そうして続けてきた4つを、最近こう感じる瞬間が増えた。

「これは、もう実益のためだけにやっていることではないな」と。

本業は、淡々と続けることが、生活のリズムと自分の存在意義を、静かに支えてくれている。
ブログは、書くこと自体に、自分を整理する効用がある。
英検は、英語に触れる時間そのものが、心地よくなってきた。
地元は、ここに居続けることが、家族や思い出と地続きでいられる安心になっている。

最初は実益だった。けれど続けるうちに、「もう少し続けたい」「これがあると毎日が違う」と感じるものに変わってきた。

これを「好き」と呼んでいいのかは、自分でもまだはっきりしない。けれど、もし「好き」というものが、最初から存在するものではなく、続けることの中で育ってくるものだとしたら──私はようやく、その入口に立ったのかもしれない。

第3シリーズで書いてきた4つの記事も、振り返れば同じことを言っていた。英検対策から始まる学び、親のために残った地元、収入補填から始まる副業、社会保険を確保しながらのフリーランス(関連:60代でフリーランスは現実的?|向いている人の条件と社会保険を確保する選択)──どれも、入口は実益だった。けれど、続けてきた人たちは、ある日「これは、もう実益のためだけじゃないな」と気づく瞬間に出会う。

それは、最初から好きを探し続けるよりも、ずっと自然な道筋なのかもしれない。

60代の「働き方改革」を、私はこう捉えている

世の中で言われる「60代の働き方改革」は、独立、転職、FIRE、フリーランス、副業──といった、外向きの大きな変化を指すことが多い。

それも一つの形だ。60代でフリーランスを選ぶ人もいる。副業を本業に切り替えていく人もいる。それは尊重されるべき選択だと思う。

けれど、私が定年から数年たって辿り着いた「働き方改革」は、もっと地味なものだった。

辞めない。
転職しない。
独立もしない。
ただ、続けている。

そして、続けながら、自分の中の「働く意味」が少しずつ書き換わっていく。

これは「改革」と呼べるのか、と自分でも問うてきた。外から見れば、何も変わっていないように見える。給与明細も、職場のIDカードも、自転車の通勤路も、3年前と同じだ。

けれど、内側で起きていることは、確かに変わった。「義務として続けている」から「続けることに自分なりの意味を見つけ始めている」へ。

そう考えると、60代の働き方改革には、外向きの変化と内向きの変化の、2種類があるのかもしれない。

外向きを選ぶ人もいる。内向きを選ぶ人もいる。どちらが優れているという話ではない。

ただ、私のように「変化に飛び込む勇気はまだ持てないけれど、何か違うものが見えてきた気がする」と感じている人にとっては、内向きの変化も、立派な「働き方改革」と呼んでいいのではないか。──最近、そう思っている。

まとめ:「好き」を、急いで探さなくていい

60代になった今、定年前の自分にもし伝えられるとしたら、こんな言葉になるかもしれない。

「『好きなこと』を、急いで探さなくていい」

「定年後は何かやりたいことが必要だ」「生きがいを見つけなければ」──そう言われると、焦る気持ちが出てくる。私も、そう感じていた時期があった。

けれど、定年から数年が経って気づいたのは、好きなことというのは、探して見つけるものというより、続けてきたものの中から、ある日ふと姿を現すものだ、ということだった。

実益から始めても、いい。
動機が地味でも、いい。
派手なスタートでなくても、いい。

続けていれば、いつか、何かが見えてくる。

その「いつか」が、すぐかもしれないし、もう少し先かもしれない。それは私にも分からない。けれど、続けてさえいれば、何かしらは見えてくる。それは、第3シリーズで書いてきた記事を通じて、私自身が確かに感じてきたことだ。

定年前の自分にも、これを読んでくれている同世代の方にも、伝えたい。

焦らなくていい。
探さなくていい。
ただ、続けてみていいんだ。

その先に、自分なりの「働き方」が、静かに姿を現すから。


※本記事は私の個人的な体験と振り返りをもとに書いています。受け取り方は人それぞれだと思いますが、ひとつの視点として参考になれば幸いです。

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